2016年8月24日水曜日

情報に尖る

情報は情報でしかないが、そこに感情を乗せると、より具体的になる。偏る。
偏ると感情の増大が加速するので、行動が尖りやすくなる。尖れば
そうなると、自分がやってることを客観視するのが後回しになりやすい。
尖れば、人や自分も傷つきやすくなる。

様々な現象、出来事がある。そして、それに対してもの申す人も
数知れない。それらは情報である。自分で手繰り寄せなくても
ベルトコンベアのように、自分の目の前にやってくる。

目の前にある情報に、自分の感情を乗せて良いものか、考える。

2016年8月19日金曜日

形と速度と経験値

「創作における作業速度」の話です。

twitter等で、時々RTで回ってくる話題で「創作における作業速度の大切さ」というのがある。作業速度が速いことは、様々な良いことを僕らにもたらしてくれる。

例えば、絵を描く人で、1か月に10枚描くか、100枚描くかだと、経験値の入り方はかなりの差が出る。単純な作業速度ではなく、その物量をこなすための情報処理の力や、人とのやりとり、時間配分、生活力、など、数が増えれば周辺の「付随する作業」もこなすことになる。もちろん、量をこなせば絵を描くというスキル向上も物量に比例することになる。

もし、プロであれば、創作物をたくさんこなせるということはつまり、単純に得られる報酬が多くなる。お金を多く得たいと考えているプロの人は、作業速度を如何に上げるかをまず真剣に考えている。

ひとつの創作物を完成させる速度が速いということは、チェック工程のタイミングも早くなるということだ。チェック日が10日先にあったとしても、もし2日目でUPができる状態になれば、8日間の余裕ができる。その余裕は創作物の質を上げるため期間に割り当ててもいいし、提出してもいいかもしれない。その分、別の作業の時間に割り振ることもできる。
「作業速度」が速ければ、自分に対してだけではなく、周りにとっても多くの恩恵がある。

ところで、僕の感覚だが、この「作業速度」はなかなか鍛えるのが難しいように思う。
絵を描くことで言うと、手を動かして作業するから、その絵を描くスピードを上げれば作業速度が上がるかというと、そんな単純でもないようだ。むしろ、考える速度の方が全体の作業時間では圧倒的に長い。作業における思考の速さは、結局作業に直結している。
例えば、「こういう絵が求められている」と認知したとき、そこからどういう風に作り上げてゆくか、という実現のための思考速度がかなり影響すると思う。そこで、適切な手段が思いつかずに思考が止まってしまえば、時間をロスすることになるし、中断ということにもなりかねない。

一方、形にできないままお流れになる、ということは創作ではよくある(僕も結構ある…)。
その場合、完成させることに比べると、明らかに獲得できる経験値は少ない。それは過程が結果に繋がらなかったからだ。失敗を検証する、とか、工程の中で思いついたアイディアを次に生かすとかそういった経験は得られるかもしれない。もし完成しない、と自認できたらその段階でさっさと見切りをつけて、リスタートするというのも一つの手段だ。こういった「見切る」という部分でも作業における思考の速さは関係してくる。

創作における経験値は、より良いものを実現させる力にプラスされてゆく。
蓄積されれば、自分の作り上げるものの完成度も上がる。
そのサイクルの速さが、作業速度と言える。

2016年8月17日水曜日

かもしれなさ感

服を買いに行って、ちょっと気になった服を見かけた時。
自分で「この服が好きかもしれない」と言ったとする。すると、人から「自分で好みとかってわからないものなん?」と突っ込みを入れられるかもしれない。しかし、実際のところ、自分のことを分からないような局面は結構多いと僕は思っている。

例えば、今は五輪の時期だが、自分がやったことが無いスポーツ等の映像を見た時、このスポーツが好きかどうか分からない、なんてことは割とよくある。あるいは、実際に自分がそのスポーツをやってみたと仮定したときにどう思うか、なんてまず分からない。行ったことの無いブラジルに降り立った時に自分がどう感じるかも想像でしか分からない。冬なのに暑さでへばるかもしれないし、すごく気に入るかもしれない。

ごはんが好きかもしれない。或いは、何か作品を見ている時、僕は楽しめている…!かもしれない。こんな感じで、僕の頭の中には「かもしれない」が結構な頻度で出現する。みなさんはどうだろうか…。

僕はこの「かもしれなさ感」は大切だと考えている。「かもしれない」は僕も文章で割と使うが、意味としては、「仮定」「推測」「想像」「予測」「類推」みたいなニュアンスが込められている。少なくとも僕では分かりかねる、断定はできない、というイメージだ。
一方、断定することを良しとする人もいる。例えば「~に違いない」「絶対に~だ」「~なはずがない」という言葉を多用する人である。自分は多用はしていないようだ。自分の考えなんて、簡単に認識できるとは思えないし、そもそも時間が経過すれば意見などはすぐに変わってしまう。

もちろん、ある段階で「こうだ」と言わなければいけない局面は、ある。それは既に様々な過程を経て、決定できる段階にある行動や、プロジェクト等、会社等での、意思決定の場においては断言することは必要だと思う。全く何も決め込まず、フワフワしていたら、優柔不断な組織になってしまう。ずっと「かもしれない」ばかり言っていては困る。
ただ、日常で何か考えを述べる時、最初からこうだと決めつけてかかることは、様々な意見を排除する結果になりかねない。

自分たちは、そこまで自分のことを分かっていない。そんな気がする。
様々な意見、情報、知識を積み重ねてゆくうちに、「もしかしたらこうかもしれないな」と考えて、想像力が養われる「かもしれない」。

2016年8月6日土曜日

人が集中するタイミング

お盆やら、正月やら、そういったイベント時期が来る度に、もうちょっと社会で働く人たちが、最適に、かつ分散して行動できるような仕組みってできないものかなぁ、とか思ったりする。
みんなの様々なロスが減って、ちょっとずつ楽になる、みたいな。
昔に比べると、それは出来そうなものだと思ってるんだけどなあ。