2016年10月17日月曜日

主体と工夫と想像と

普段、何気なしに「こういう事がしたいな」
と感じることがあると思う。
それは、昔から思っていた自分にとって超超重要な
ことかもしれないし、1日の中で、なんか美味しいものが食べたい
という何となくな感情みたいなものかもしれない。
その「何となく」から具体的な行動に出るためには
主体性が必要になる。つまり自分が中心になって動く、ということだ。

そんな中で、工夫というものがポンとでてくることがある。
「普段の様々な作業の中で
自分なりの思考でより良い結果に到達させるテクニック」
そんな感じだろうか。

この工夫は、主体性と想像から生まれる、と僕は思っている。
先の「こういう事がしたいな」という考えがあれば
目の前のちょっとした課題に直面したとき、
もう少しなんとかできないかなと考えて想像する。
絵でも、人の絵を観察すると様々な工夫を凝らしているのがわかる。
例えば絵で、人物の輪郭線をちょっと太くすることで
見栄えが良くなったり、視認性が上がるというテクニックがある。
それは、絵を描く人の様々な思考の過程があり
「もっと魅力的に見せたい!」という想いがきっと入っているだろう。
想像力を備えればより工夫の精度が増す。小さなことでも良い。
それらは、自分がやりたいこと、
欲求に基づいていると言えるかもしれない。

2016年10月11日火曜日

使えるスキルを引っ張り出す

たまに、あれ?自分ってこんなこと得意だったのか?
みたいなことがある。ほんとうにたまにだが。
スキルというのは特化しているものもあれば、実は汎用性に優れたものもある。
つまり、何か自分が成すとき、いつもは別の状況下で発動していたスキルが
更に別の状況でも転用されているみたいなことだ。
色々普段やらないことに挑戦してみるとそういうスキルにカチ当たることがある。
不思議な再発見。こういうのってセレンディピティの親戚みたいな感じなのかな。

2016年9月4日日曜日

健康と不健康の並走?

自分は普段から健康には気を付けているのだけど、
それでも何か自分の心が不健康な時に描くものの方が
面白いと感じることが多い。
例えば、深夜3時ごろに描いたコンテとか絵とかは
なんか尖っててよろしい。よくぞ思いついた自分、みたいな気分になる。
一方、比較的満たされたときに描くものは何となく
普通でお利口な感じがする。心身が安定したときだと
それも創作物に反映されるようだ。

創作は総じて「負」というか、眠い、苦しい、死ぬ、ひもじい
悔しい、怖い、寂しい、腹が立つ、恥ずかしい、辱めを受けた、虚しい、…など、
そういう感情から出てくるもの
の方が面白くなりやすいと感じる。何かから
脱出しようとする力、みたいなものかもしれない。

満たされると案外弱くなる。
健康的だけでなく不健康的も兼ね備えるバランス感覚が
創作には必要かも。

2016年8月24日水曜日

情報に尖る

情報は情報でしかないが、そこに感情を乗せると、より具体的になる。偏る。
偏ると感情の増大が加速するので、行動が尖りやすくなる。尖れば
そうなると、自分がやってることを客観視するのが後回しになりやすい。
尖れば、人や自分も傷つきやすくなる。

様々な現象、出来事がある。そして、それに対してもの申す人も
数知れない。それらは情報である。自分で手繰り寄せなくても
ベルトコンベアのように、自分の目の前にやってくる。

目の前にある情報に、自分の感情を乗せて良いものか、考える。

2016年8月19日金曜日

形と速度と経験値

「創作における作業速度」の話です。

twitter等で、時々RTで回ってくる話題で「創作における作業速度の大切さ」というのがある。作業速度が速いことは、様々な良いことを僕らにもたらしてくれる。

例えば、絵を描く人で、1か月に10枚描くか、100枚描くかだと、経験値の入り方はかなりの差が出る。単純な作業速度ではなく、その物量をこなすための情報処理の力や、人とのやりとり、時間配分、生活力、など、数が増えれば周辺の「付随する作業」もこなすことになる。もちろん、量をこなせば絵を描くというスキル向上も物量に比例することになる。

もし、プロであれば、創作物をたくさんこなせるということはつまり、単純に得られる報酬が多くなる。お金を多く得たいと考えているプロの人は、作業速度を如何に上げるかをまず真剣に考えている。

ひとつの創作物を完成させる速度が速いということは、チェック工程のタイミングも早くなるということだ。チェック日が10日先にあったとしても、もし2日目でUPができる状態になれば、8日間の余裕ができる。その余裕は創作物の質を上げるため期間に割り当ててもいいし、提出してもいいかもしれない。その分、別の作業の時間に割り振ることもできる。
「作業速度」が速ければ、自分に対してだけではなく、周りにとっても多くの恩恵がある。

ところで、僕の感覚だが、この「作業速度」はなかなか鍛えるのが難しいように思う。
絵を描くことで言うと、手を動かして作業するから、その絵を描くスピードを上げれば作業速度が上がるかというと、そんな単純でもないようだ。むしろ、考える速度の方が全体の作業時間では圧倒的に長い。作業における思考の速さは、結局作業に直結している。
例えば、「こういう絵が求められている」と認知したとき、そこからどういう風に作り上げてゆくか、という実現のための思考速度がかなり影響すると思う。そこで、適切な手段が思いつかずに思考が止まってしまえば、時間をロスすることになるし、中断ということにもなりかねない。

一方、形にできないままお流れになる、ということは創作ではよくある(僕も結構ある…)。
その場合、完成させることに比べると、明らかに獲得できる経験値は少ない。それは過程が結果に繋がらなかったからだ。失敗を検証する、とか、工程の中で思いついたアイディアを次に生かすとかそういった経験は得られるかもしれない。もし完成しない、と自認できたらその段階でさっさと見切りをつけて、リスタートするというのも一つの手段だ。こういった「見切る」という部分でも作業における思考の速さは関係してくる。

創作における経験値は、より良いものを実現させる力にプラスされてゆく。
蓄積されれば、自分の作り上げるものの完成度も上がる。
そのサイクルの速さが、作業速度と言える。

2016年8月17日水曜日

かもしれなさ感

服を買いに行って、ちょっと気になった服を見かけた時。
自分で「この服が好きかもしれない」と言ったとする。すると、人から「自分で好みとかってわからないものなん?」と突っ込みを入れられるかもしれない。しかし、実際のところ、自分のことを分からないような局面は結構多いと僕は思っている。

例えば、今は五輪の時期だが、自分がやったことが無いスポーツ等の映像を見た時、このスポーツが好きかどうか分からない、なんてことは割とよくある。あるいは、実際に自分がそのスポーツをやってみたと仮定したときにどう思うか、なんてまず分からない。行ったことの無いブラジルに降り立った時に自分がどう感じるかも想像でしか分からない。冬なのに暑さでへばるかもしれないし、すごく気に入るかもしれない。

ごはんが好きかもしれない。或いは、何か作品を見ている時、僕は楽しめている…!かもしれない。こんな感じで、僕の頭の中には「かもしれない」が結構な頻度で出現する。みなさんはどうだろうか…。

僕はこの「かもしれなさ感」は大切だと考えている。「かもしれない」は僕も文章で割と使うが、意味としては、「仮定」「推測」「想像」「予測」「類推」みたいなニュアンスが込められている。少なくとも僕では分かりかねる、断定はできない、というイメージだ。
一方、断定することを良しとする人もいる。例えば「~に違いない」「絶対に~だ」「~なはずがない」という言葉を多用する人である。自分は多用はしていないようだ。自分の考えなんて、簡単に認識できるとは思えないし、そもそも時間が経過すれば意見などはすぐに変わってしまう。

もちろん、ある段階で「こうだ」と言わなければいけない局面は、ある。それは既に様々な過程を経て、決定できる段階にある行動や、プロジェクト等、会社等での、意思決定の場においては断言することは必要だと思う。全く何も決め込まず、フワフワしていたら、優柔不断な組織になってしまう。ずっと「かもしれない」ばかり言っていては困る。
ただ、日常で何か考えを述べる時、最初からこうだと決めつけてかかることは、様々な意見を排除する結果になりかねない。

自分たちは、そこまで自分のことを分かっていない。そんな気がする。
様々な意見、情報、知識を積み重ねてゆくうちに、「もしかしたらこうかもしれないな」と考えて、想像力が養われる「かもしれない」。

2016年8月6日土曜日

人が集中するタイミング

お盆やら、正月やら、そういったイベント時期が来る度に、もうちょっと社会で働く人たちが、最適に、かつ分散して行動できるような仕組みってできないものかなぁ、とか思ったりする。
みんなの様々なロスが減って、ちょっとずつ楽になる、みたいな。
昔に比べると、それは出来そうなものだと思ってるんだけどなあ。

2016年7月30日土曜日

区切り感

何周年とかそういう区切りのよい話はよく聞くけど、別に区切りの良くない時だっていいやんって思うことはある。
例えば、「今日が会社設立10周年です」ってのと「今日が会社設立9年と364日目です」ったら別にどっちだっていいでしょう。実際、自分の所属する会社が10周年だったとしても、「実際のところ数字に関してはどっちでもいいや」って思う人結構いるんじゃないかな。
僕はそういう数字だけを見た節目にはあんまり拘らない。こういう区切りのいい数字の方が、何かをしたり、思ったりするきっかけになるから人も動きやすいってことなんだろうか。
一方で、誕生日はわかる。年に一回というタイミングとか、対個人という規模とか、祝われるのはやはり嬉しいものだ。

2016年7月25日月曜日

通過する温度

自分は夏の時間が凄く好きなんだけど
毎年夏は忙しいうちに退場してしまう。今年も既に
6月さんも7月さんもご退場だ。
今通って行った時間はもう来ないので
せめて楽しく生きましょうな、と言い聞かせた。

2016年7月7日木曜日

その気になれば成長はできる

例えば僕の寿命が50歳までだと仮定したとき(明日かもしれないけどね)、折角なら50歳まで成長しつづけたいし、ちゃんと考えられる人になりたい。つまり毎年ちょっとは成長したい。思考の質だって上げたい。

2016年7月3日日曜日

つまり、褒めたいのだろうけど


以下のような言葉を見たり聞いたり
するたびに、僕が思っていることを書きます。

例文A
「○○(作品名や人物名など)は嫌いだけど」
例文B
「××(例文Aとは別の作品名や人物名)は好みだわ」

という2つの文章がセットの場合。
例文Aは要らない。

2016年7月2日土曜日

スルーされる横断歩道

交通ルールあるあるみたいな話をする。
信号機無しの横断歩道の扱いがちょっと難しい、という話だ。

道路には歩行者が道路を横断するための、横断歩道が存在する。
主に交差点など、車がまあまあ通るような片道一車線の道路で、かつ歩行者が道路を横断する状況が想像できそうな場所に横断歩道は存在している(これは僕の想像です)。意識してみてみればすぐ見つかると思うが、信号機が無い場所でも横断歩道はある。歩行者からすれば、「渡っても良い歩道」というぐらいの認識はあるだろう。

ところで、車の運転手の立場になると、この、信号のない横断歩道に差し掛かったとき、渡る為に待機している歩行者がいた場合、一度横断歩道前で停止して、歩行者の横断を譲る、という交通ルールがある。自動車免許を取った人であれば必ず習っているルールである。

僕が普段、家から徒歩で最寄り駅に向かうとき、割と交通量の多い道路を、
信号無しの横断歩道で渡る局面がある。しかし、横断歩道前で僕が立っていても、
一時停止して横断を譲る車はほぼ無い。車がびゅんびゅん行きかう中、僕はスキを見て横断している。一度、パトカーが通りかかったときは、ちゃんと一時停止してくれて、無事、僕は道路を横断することができた。

運転手の立場からすると、信号機のない場所でわざわざ停止することに対して
面倒くささがあったり、いざ、歩行者を認めて一時停止しても、肝心の歩行者が
遠慮して渡らない、なんてこともあるかもしれない。そうなってくると、ルールを
守らない運転手がいるのもわからなくもない。
どうすればいいか、という話ではない。ただ、個人的に考えているのは信号機無しの横断歩道はおまじない程度のもので、実際のところ横断歩道無しの場所を横断しているのと大差ないんじゃないかと思えてくる。ま、その時は自己責任ですわね。

2016年6月18日土曜日

面倒に挑む


自分の創作に関する話です。

学生の頃に自主制作アニメを作っていく中で学んだことで
「自分ができることからとりあえずやってみる」
ということがある。そもそもアニメは自分で作ろうとすると、やるべきことと、できないことが圧倒的に多くて途方に暮れる。「面倒だからやめとくか…」とへこたれる場面も多い。

しかし、ちょっとずつ面倒なことに挑戦していくと気がつけば、「まさか自分がこんなことまでできるなんて!」みたいに片付いていたりする。
例えば、自分がアニメ作り始めの頃、「作画TUのカットを作ってみたいなあ」とずっと思っていた。TU(トラックアップ)とは、カメラがグーッと前に移動していくカメラワークのことで、これを作画で表現する。実際に描いてみると凄く難しいし、作画枚数もすごくかかるし(つまり色を塗る作画枚数も増える)、撮影もひと工夫が必要な、高度な内容だ。
面倒だけど、どうしても実現させたかったので、自分の技術と時間は限られていたが、限られているなりにやってみると、悪くない出来になった。ほんの2秒のカットだが、作画枚数は30枚を超えていた(それでも枚数は足りなかった)。背景を一枚しか描いていなかったが、単純に背景を等速で拡大表示させるだけではダメで、近づくにつれて拡大の速度を上げてやれば迫力も出やすい、みたいなことも検証できた。こういった反省材料はたくさんあったので、それは次の作画TUカットを作る時に生かされた。当時は1カット1カット作る中で、自分に目標を課していたが、今も仕事でそれに近いことをやっている。同じことをやっても意味が無いのだ。
創作は、検証の繰り返しの側面もあると言える。だからこそ
できることからやってみる姿勢に意味があると思っている。

2016年5月25日水曜日

ものをもつ

「物を所有する」
という認識は想像力によって養うことができる。

個人的な所有物でも、家族と一緒に使っているものだったら「家族内での共有物」と言える。たとえば、「自分が買ってきた家に置いてあるプリンタ」とか「炊飯器」等である。

これを、少し範囲を変えてみると、友達から借りた本となると「借り物」になる。手に持っているのは自分だが、所有者は友達である。自分が所持している、とは言わない。もしこの本を第三者に貸そうとするといわゆる「又貸し」になる。

バス会社であれば、個人がバスを所有しているというのは、無くはないだろうが多くはバス会社の所有物であろう。バス会社に所属する運転手さんがバスを所有しているわけではない。しかし、バスのように、不特定多数の人たちに対してサービスを提供しているとなるとそのバスを多くのお客さんが利用することになる。「公共」という範囲イメージで、バス会社のバスをみんなで「共有している」とも言える。金銭的に高い物になってくると、多くの人と共有するようなものは周囲にもたくさんある。

旅館であれば、経営者が所有している不動産だったりする。宿泊サービスを利用するお客さんはお金を払うことで宿泊客として旅館の設備を利用することができる。
もちろん旅館の従業員も設備を利用する。いろんな立場の人が、その旅館の空間を「共有している」と考えることもできる。

私たちは、自分の所有物ではなくても、その物を使うことができる。物があるということはその物を所有している人はきっといるはずである。

2016年5月20日金曜日

代替

例えば、年収600万の社員を解雇すると、会社的には年間600万のコストが浮きましたラッキー、ではなく、その浮いたコストによって発生するであろう負担を他の要素で補わなければならない、という作業が増える。そしてその負担は大抵600万では補えない。数字ではなく、生み出されていた価値の話。

2016年1月5日火曜日

2016

あけましておめでとうございます。
今年も積学到遠の想いで、全力で創作に取り組んで行きます。
どうぞよろしくお願いします。