2015年11月5日木曜日

リミットのチカラ

いわゆる締め切りというものは、人の意思をある程度コントロールする力があるようだ。
締める、区切る、止める、始める、中断する、など、時間に切れ目を入れるような
表現はメリハリがつくといえる。
もしこの時間の区切りがなければ、人は結構ダラダラしちゃうだろうと思う。
もし家の電力供給が22時までというルールがあったとしたら。
PCでの作業はなんとしても22時までには終わるようにしなければならないだろう。

一方で自分の中で「夜」とは何時から何時までかはっきりと決まっていなければ
就寝時間などもバラつきがでてくるかもしれない。
制限がない状況では、自分がなんとかアクセルとブレーキを
コントロールできなければならない。

2015年9月16日水曜日

防災について少し

最近もとても衝撃的な災害があったが、行政なども防災に関する
マップ等を作ったりして、防災意識の向上を図っているように見える。
例えば、この土地は地盤が緩い、とか海抜が低いとか、津波の心配がない
等である。こういったことは覚えておいて損がないばかりか
自分たちの命を救うこともあるだろう。
僕は阪神大震災を体験しているが、ひとたび災害が起きると
極めて不自由で苦しい生活を強いられる。そういったことを痛感した。
当時、確か近畿地方はあまり地震の発生しない地域、というイメージが
世間的に持たれていたように思う(少なくとも僕の地域ではそういう
空気だった)。しかし後で調べてみると、近畿圏だと兵庫の日本側等では
過去に大きな地震も発生して大変な被害も出ていたりする。
ここなら安全だ、と安易に考えてしまうことは、とても危険だと思う。

地震が毎日起きているような国だから、いつどんな災害が発生しても
全く不思議ではない。人のせいではないし、政のせいでもない。
そういう現象なのだ。僕らが何をどう思おうと、
自然は勝手に災害を引き起こす。
だから人は、少しでも被害を少なくするために
昔からそれを予測するための知識を得てきたし、システムだって
色んな人の知恵や労力によって作られてきた。
防災とは過去から今、未来をも意識した集合知とも言えるかもしれない。
それらを共有し、ひとりひとりが身を守るために持っているべき考え方だと思う。

2015年8月31日月曜日

はちゃめちゃ兵站

三国志演義では大軍の戦いが結構出てくるが
その数字は割とおおらか(?)な印象である。
例えばハイライトである赤壁の戦い。
曹操軍は80万という設定だ。この兵の大半は
河北からの行軍で、疲れているという設定だった。
つまり何100キロも80万人を歩かせてきた
ということになるのではないか。
80万人をゾロゾロと歩かせるために
どれだけの馬や荷台や食料が必要だと思っているのか。
(と言っておきながら僕もちょっと想像がつかない)
そもそもなんで80万なんだろうか、当時の曹操の
領土から、最大で80万ぐらい動員できますよみたいな根拠が
あったのかな?各都市から2、3万人派遣して
それだけの数に膨れ上がったってこと?
兵站の事を考えたら、結構無理がありそうだなあと思えてくる。
1/10とまでは言わないけど80万はちょっと盛り過ぎ感はある。
元ネタの戦いもあることだし、大人数を言っとけば演劇で盛り上がっただろう。



2015年8月17日月曜日

埋没費用感覚

僕は昔から埋没費用(サンクコスト)の考え方を
日記で何度か書いている。

この埋没費用とはどういうものか。
例えば1年かけて、費用10億円を使ってビル建設の為の
計画を進めてきた。しかし計画は難航し、建設計画そのものを
中止すべきではないか、という意見も出てきた。
もし中止してしまうと、今まで使ってきた1年と10億円が
無駄になってしまうから、無理をしても建設計画は
進めなければならないのではないか。
みたいなケース。ここでは1年と10億円が埋没費用ということになる。
この埋没費用は、物事を完了させるための必要な経費であり、
帰ってくるものではない。この埋没費用を無駄にしたくない
という考え自体は大事だが、優先しすぎると、
更に無用なコストを重ねてしまうこともある。
先の例では、もし計画を中止すれば、未来に発生する
無用な時間とお金を消費することは少なくとも回避できる。
その浮いた時間と費用を代替案に回せばよい。
つい先日も、世間でも、巨大建造物の計画を
どうするか?というニュースが出ていた。
埋没費用はどうやったって帰ってはこない。勿体ない、取り戻そう、
という呪縛から解放されれば柔軟な手段も取れることもある。

2015年7月26日日曜日

記憶と上書き保存

ふと気まぐれに自分が昔住んでいた区画付近を
ストリートビューで見てみた。その土地に引っ越してきたのは
20数年前だ。その時の記憶と照らし合わせてみる。
20数年前と一切変わっていない建物が多く、
景色って案外変わらないものだなあと思いながら見ていた。
一方、ある区画はもう完全に様相が変わってしまっていた。

もはや僕の記憶ではそこに何があったのか思い出せない。
また僕が一時期通っていた保育園は撤去されていた。
何か、記録に残したり写真で残していなければ、
そのうち僕の保育園の記憶ももっと薄れるだろう。
こうやって自分の中の景色は上書きされていくんだろうか
とか考えていた。

2015年7月17日金曜日

引用


誰でも、情報を引用して、人を誘導することが簡単になった。
誰かの言葉やサイトを引用したりリツイートして
「それな」って言うことは簡単だ。
良い文章や、ためになりそうな記事を拾ったら
ちょっと注目される、みたいなことはあるかもしれない。

ただ、僕はそういうものにはあまり興味は無くて、
自分で感じて自分で思って自分で調べて自分で考える、
そういう過程を経たその人の言葉の方が僕は興味がある。

2015年7月1日水曜日

機能プラスアルファ

スーパーでお米を買う時、どれを買ってもある程度美味しい。
別にスーパーでは無くても酒屋でも米屋でもいい。僕は時々違った種類のお米を買って食べ比べることがあるがどのお米も美味しいなあと感じる。
消費者としては、安くて美味しければ基本的には良いのだが、もしお米が5種類陳列されていたらどれを買えばよいかちょっと迷うだろうと思う。
今日では、こういった「既に商品としての機能を十分備えた商品」が溢れている。これはもう礼儀みたいなもので、あって普通という認識が消費者の中にはあるとみてよい。供給者側としてもなんとか顧客を確保する必要がある。

そこで、何かモノを売るというよりそのモノに対して
付加価値を含ませてあげるみたいなサービスはほとんどデフォルトだろうと思う。米の例で言えば、
「特別に認可された土地で作っているお米です!」とか
「農薬を極限まで使わない工程で作られたお米です!」とか
「米作りに携わったのは17歳の美少女です!」とか
そういう特別な価値が消費者にとってのフックとなるかもしれない。そう言えばお米の袋にかわいい女の子キャラのイラストが描かれたものもあったねえ。
更に付け加えるとしたら、消費者個人にまさに訴えかけるようなダイレクトな売り方。健康に気を使う高齢者のために米だけではなく健康食材をオススメするとかその人の立場に立った売り方等である。
もちろん、これらのような売り方は、前述のように
「商品の機能として、ある程度のクオリティが確保されている」
のが前提となる。 みんなお金を出すからにはちょっとは得をしたいし、特別感を味わいたい。そう考えるのは決して不思議なことではない。

2015年5月30日土曜日

意味の更新

言葉の意味は人によって違う。
人と話す時、同じ単語を使っていたとしてもなんとなく自分が外しているような感覚を
持つことがある。そういう時は「僕はこういう意味でこの言葉を使っている」
というのを事前に伝えておけば伝達率は上がるようである。

しかし、場合によっては自分自身の中でも実は案外言葉の意味にブレが生じている、みたいなことがある。例えば、僕は最近「快適」という言葉の意味が少し更新された。10年前に使っていた快適とは、明らかに違う「快適さ」を自分が求めていることに気がついたからだ。
具体的にはクーラーがついていることが10年前の僕にとっては「快適」だったが今の僕では実は体に負担をかけてしまうものとしてクーラーは認識されている。必ずしも快適とは言えなくなった。だから僕が「クーラーは快適ですね」という言葉を使うことはちょっと語弊が生じるかもしれない。別の言葉で言い換える必要があるだろう(そもそも、最近はクーラーとは言わずエアコンって言ってる気がする)。

自分の中ですら、こう言うことが日常的にある以上、言葉の調整みたいなものは割と定期的に行う方が伝達もラクなのかなぁ、とちょっと思ったのでした。

2015年5月28日木曜日

じぶんわらわら

例えば、10歳の自分が作った作品は、今の自分には作ることができない。
10歳の自分の作品は生涯残るが、もし10歳の時に作らなかったら、
「10歳の自分の作品」は永久に作られることはない。
そして、それは現在においても全く同じことが言える。
「現在の自分の作品」は、現在の自分にしか作ることができない。

過去から今にかけて多くの作品を作り続けている人を見ると
その人がたくさんいるようで、少し楽しくなってくる。

2015年5月14日木曜日

何もしないサイクル

自分はたまに、「何もしない時間」を作ることがある。
それはせいぜい30分から1時間ぐらいで、そこに自分のやりたかったことを放り込むこともあるが、本当に何もしないこともある。ただし、だらだらするのは好きではないので、そうやって自分で開始から終了までの期間を決めるのである。
創作のためにはまとまった時間が必要なので、少しでも自分が動ける時間を確保することは必須だが、それでも、空白の時間で自分の中の情報を整理整頓するような役割もある。そういう意味では、この何もしない時間は、少々違った趣で役に立っているかもしれない。

ところで、24時間の中で、自分の生命維持に必要な行動に要する時間ってどのぐらいなんだろうか。例えば僕の場合、睡眠はほぼ7時間確保する。食事も3食合わせれば2時間は行くだろうか。そのほかお風呂やら洗濯やらの家事を含めると、もっと多くの時間が1日の中に組み込まれている。通勤や通学をしている人であれば、それだけで4時間近く取られている人もいると思う。
そうやって考えると、人の生命維持ってなんて非効率的なんだろう…と思うけど、だからと言ってこれらを簡単に削ることはできない。こうした時間は埋没費用みたいなもので、全てを取り返そうと思ってはいけない。明らかに長すぎる場合は、自分の努力の範疇で短縮する方法を考えても良いと思うが、過度に削れば、どこかで必ず体調を崩して、結局多くの時間をロスすることになりかねない。長期的に見ればとても損である。
自分が1日に使える時間はどこかで限られるのだから、その中でやりくりし、自分の「悪くない状態」を維持することの方が重要に思えてくる。
と、「何もしない時間」を使ってそんな事を考えていた早朝でした…。

2015年4月12日日曜日

作業と音楽

何か作業の時にかける音楽のことを、作業用BGMなどと言われたりする。
絵を描く時や掃除をする時、勉強する時などに音楽を流すことで、ムードを高めたり、心を落ちつけたり、効率化をはかったりする際に役に立つかもしれない。電車で移動中や、車を運転中の時にかける音楽は作業用BGMとは多分言わない。移動用BGMとか言ったりするのだろうか?
映像や作画のスタジオでは、ヘッドフォンをして作業している人がとても多い。
人によっては「他人から声をかけられないように」とか「周囲の雑音をシャットアウトする」という意図でヘッドフォンをしている人もいるようなので、一定の効果はあると思う。自分もそういう風に作業をしたことはある。
僕は、仕事中はBGMをかけることはあまりしなくなった。例えばアニメーションの絵コンテや作画や撮影編集で、絵コンテの場合は尺を計る作業があるので、音楽は流すことができない。絵を描くときは音楽を流すこともあるが、出来るだけ気が散らないように静かなインストゥルメンタルをかける。撮影の場合も、編集の場合もタイミングを調整するので、音楽を聴きながらの作業はできない。ただし、作画の彩色など、反復作業になりやすい作業時には、曲をかけることはある。そう言えば、音響の友人によると、音響の作業をしている時もやはり曲はかけられないらしい。
読書するとき等であれば、音楽をかけてもいいかもしれない。音楽を聴くときは、できればほかに作業はせず、静かで何もしない状態で聴くことが多い。

2015年4月11日土曜日

きざしっぽいものを感じ取る

兆しとは、気配、予感、予知、兆候、気配などのことで、例えば暖かくなってきたら「春の兆し」とか雨が止めば「天気の回復の兆し」、等といったりする。
敏感な人であれば、その兆しは早い段階から感じ取ることができる。もう少しシンプルに言い換えれば変化のきっかけだ。
変化のきっかけには、何かが加速する瞬間がある。それはゆっくりと加速するかもしれないし、瞬発的に現れることもあるだろう。もしかすると、兆しという言葉が当てはまらないぐらい小さなものもあるかもしれない。

映像は兆しの連続と言えるかもしれない。映像には時間がある以上、見ている人が興味を失わないために変化を描く必要がある。だから、映像の中に、大小さまざまな兆しをいれることで、映像に緩急をつける。
例えば、テーブルにお茶碗があり、ご飯が盛られているとする。主人公は空腹ではないのでご飯には目もくれない、しかし時間が経てば空腹になるので徐々に食欲が出てくる。そうなれば、主人公はご飯を見て何か考えるはずだ。お箸を取ってすぐにでもご飯をたべるか、おかずを買ってくるか、それとも電子レンジでご飯を温めるか…。これらの主人公の行動は、空腹の兆しを見せておくことで、より面白く引き立てることも可能だ。
兆しは素早くやってくるかもしれないし、じわじわと感じさせるものかもしれない。映像は、この特性を上手く活かすことで面白く見せることができる可能性がある。
ところで「第六感」という言葉があるが、本人の気づく力、観察力あるいは洞察力によって「もしかしたらこういうことが起きるのではないか」というのを感じているものなのかな、と思う(もうすぐ春だなあ、みたいな感じ)。日常で色んな物事を観察していれば、些細な変化に気づく精度は上がるかもしれない。敏感な人であれば、変化がもたらす先の現象・結果を想像することもできる。
兆しとは、加速する変化のきっかけみたいなもので、人が想像するための初期段階に発生する観察のように思う。

2015年3月27日金曜日

「とても影響を受けたもの」 とは


創作において、何か作っている本人が「とても影響を受けた」と認識する作品の基準ってなんだろうね、と先日創作仲間でもある友人と話していた。
 
例えば、もののシリアス度、笑いを入れる割合、悪と認識される水準、キャラ同士の距離感、死生観、言葉の使われ方、諭してくれる誰かの存在、などの水準において、その人に影響を与えまくった作品は「とても影響を受けた」と言っていいかもしれない。そこに媒体の違いはそれほど問題にはならないような気がする。
「人をだましてはいけません」という状況にも人によって水準があるはずだ。「こういうだまし方はまあやむなし」、と考える人もいれば、「だます行為そのものがいけない」、と考える人もいる。自分にとってその基準が近い作品や作者であれば「信頼できる」「影響を受けたい」と考えるかもしれない。
創作とは基本的に作り出されるものは嘘、だが、作る人のさまざまな何かは込められる。どんなに本人が否定しようとしても、大事にしているもの、好きなもの、許せないもの、などはどこかでにじみ出る。その感度が作り手と観賞者で近ければ、創作物がカギとなり、観賞する人の感覚を開いてゆく、みたいな感じはあると僕は思う。

2015年3月4日水曜日

地図

地図からは色んな事がわかる。漫画や映像作品を見る時も、自分のなかで想像して地図を描いたりすることも多い。というより、地図が無いと色んな想像を展開させるのが難しいとすら感じる。多分、僕が好きな都市を育成するシミュレーションゲーム、シムシティの影響が強いのだと思う。
地図は俯瞰的な視点なのも大きい。見下ろすというのは安心感があるのだろうか。

初めて自分が漫画の二次創作を描いたのは小学校の2年生ぐらいのころだ。その時も、
作品内では無かった地図の設定を自分で考えて書いたりしていた。適当に書いたわけではなく、漫画内での描写から、当時の自分なりに整合性を持たせて書いた。
自主制作でも僕はどの作品でも地図を必ず書いている。どのキャラがどこに住んでいるのか、とかどこにどんな施設があるのか、距離はどのくらいか、どのような気候か、など。絵コンテをの仕事の際も、簡易的に地図を書く、たぶん絵コンテを書く人であれば、みんなやっていることだと思う。実際にどこからカメラを撮ればどういう画面になるかを想像しながら地図を書くのも楽しい。そういう工程を経るから、地図を作ることは映像制作にもかなり深く関与していると思う。

2015年1月31日土曜日

埋め合わせてその感覚

例えば、暑い日は冷たいものを欲する。寒い日だと暖をとりたくなる。
このように考えるのは割と一般的だと思う。感じたものから
今あるといいなと思う何かを欲するということは自然に思える。

同様に、娯楽的なものでも、近いことは言えるかもしれない。暴力的な要素が強い
作品が台頭するということは、それを欲した時、自分はどういう状況下なのか、とか
考えてみると面白いかもしれない。
ところで、欲の種類や内容によっては、一度その欲を満たすと、次にまた発生する欲は、前と同じ分量の刺激では満足できない、なんてこともある。欲を昇華するための要素は、何かの作品であれば、極端な表現が多くなり、過剰な表現で見る者に訴えかけてくるかもしれない。同じ欲を何度も発生させているということは、状況は変わっていない、とも言える。それだけ要求するものも短期間で強い刺激のものになる可能性もある。
特に、善し悪しの話ではないが、今はちょっと気を抜くと自分にすぐ偏りが
できてしまうような気はする。

2015年1月13日火曜日

意図のトレス

絵や映像が完成に行きつくまでには、色んな制作工程を経ているので、ぱっと完成品を見ただけでは、なぜこうなったのかは分からないこともある。
それを知るためには、絵コンテが役に立つ。絵コンテは漫画やアニメや実写映画、CM等で、作品を完成させるためのプランの書かれた、いわゆる設計書の工程だ。だから、完成した映像等を検証したい時は、その絵コンテと照らし合わせるとより理解度は深まる。
しかし、一般的に絵コンテが世の中に商品として出回ることは少ない。たまに、アニメ設定資料集等で絵コンテも掲載されていたりするけど、例えば1話まるまるの物量の絵コンテを掲載していること自体は珍しい。絵コンテは1ページや2ページ掲載しているだけではあまり意味が無い。
そこで、自分が気に行った映像等で、もっと秘密が知りたいと思った時にする手段として、「逆コンテ」がある。逆コンテとは、完成された映像を見てそれを絵コンテに起こすことだ。僕は学生の頃からこの逆コンテを趣味で描いていた。
音楽に例えると、絵コンテは楽譜に当たるだろうか。僕は楽譜についてはよくわからないけど、人が作ったプロセスをなぞれるという意味では近いかもしれない。そして、逆コンテは、音楽でいうところの、耳コピにあたるのではと想像する(僕は耳コピで音楽を作ったことはないので、実際に近いかどうかは分からない)。

この逆コンテは、完成映像から設計書を想像して、実際に設計書を起こしてみる作業なので、この設計書の精度が上がるということは、完成品からいろんな要素を自分が拾っているということでもある。つまり、「気づき」みたいな能力が問われる作業とも言える。巨大な迷路をゴールからスタートに向かって進むみたいな作業を楽しみたい人にはオススメである。

2015年1月1日木曜日