2013年9月26日木曜日

演技OFFの可視

演技の存在をなんとなく意識するようになる瞬間は誰にでもあると思うが、今日はそんな話し。

私が小学校低学年、確か二年の頃。恒例の学校行事で、学校に演者さんを呼んで、演劇を鑑賞するという行事があった。季節ごとに行事があり、時にはコンサート、落語、漫才師によるトークなどもあった。
今回の演劇は学校の体育館で行われ、体育館には全児童が集合し、ステージはそのまま演劇用のステージとして使用された。
演劇の元になっていたのはある絵本だった、その絵本は小学生がなじみやすい、ある日本の昔話を題材にしていた作品だったし、当時の私もストーリーを知っていたのでとても楽しめた記憶はある。

演劇も盛況に終わり、児童は体育館から各々教室に戻ることになる。私も同様に教室に戻ってゆくわけだが、その途上、校舎内のある教室前を通りがかった。そこは普段は多目的教室として、文化部のクラブ活動や、道徳の授業などで使用される畳の敷かれた教室だ。普段は施錠されているが、その日は使用されているような気配が有った。
そしてその前を通りがかると、ドアは少しあいていたので、室内を確認することが出来た。中には、先ほどの演劇に出ていた演者さんたちがいた。この多目的教室が、演者さんたちの楽屋として使用されていたのだ。私が室内を確認した時間はおそらく2秒程で、立ち止まることはなく私はその教室前を通過した。
さて、その一瞬の景色に当時の私は少しショックを受けたと思う。室内は、数名の演者さんがリラックスした様子で座っていただけ。言葉で説明したらそれだけの景色だった。
だが当時の私は、ステージ上で役になりきっていた演者さんと、室内にいた「人」はまったく別の何かに感じた。そう、演者さんの「素」の状態を垣間見てしまったのだ。室内には、演劇で使用された衣装などもあったので、それらは「素」の光景を引きたてる演出材料になっていた。
当時の私はおそらく「素」という言葉をまだ知らなかったので、ステージ上で演技していた「人」と、多目的教室でリラックスしていた「人」が大いに異なる、ということを自分の中で理解するのに少し時間が必要だったのだ。
それ以降、「お芝居」「演技」とか「役」というものが、世の物語には存在することを意識するきっかけになった。当時はショックだったが、例えば「夢を壊された」とかそういう風には思わなかった。ただ、ステージ上の演者さんと、多目的教室にいた人が、あれほど違ったのはなぜなんだろう、とは強烈に感じた。境界線を覗いた感じ。
これら一連の出来事をきっかけに、もしかしたら当時の私が漫画とかキャラとかに興味を持っていった一つの分岐になっていたかもしれない。
塗り替えは、どこで起きるか、わからない。

2013年9月23日月曜日

別レイヤー

都内某所からの帰り、新宿駅付近を通ると、様々なレイヤーを経て帰宅していく人たち。
普段もそうなのですが、今日は特にそんな雰囲気。Twitterのタイムラインもそんな感じ。
それぞれのレイヤーは重なることは無い。ギリギリのところですみ分けられ
通過してゆく。しかしそのレイヤー自体は外からも視認することができる。
今の世の中の特徴かな。そうやってバランスはとられているのかもしれない。