2013年7月31日水曜日

7月は走り去り

8月になろうとしています。そんな中、先日やっと納豆そうめんを食しました。とても美味しい。
基本的にそうめんはあっさりのお手本といえるぐらいあっさりした食べ物なので
納豆はとても相性が良い。私は納豆好きなので、どうしても納豆に対して
評価が甘くなってしまうのですが、この納豆そうめんに関してもとても満足です。

あと、「風立ちぬ」を見ました。ネタばれは一切しませんが、泣きました。お客さんには
おそらく60歳以上と思われる年配の人がとても多かったです。

2013年7月27日土曜日

ライブ

豚乙女さんのライブに行ってきました、パワーをもらった…そして
幻想のサテライトもきけて嬉しかった。

明日から頑張ります。

ところで凄い汗をかいて外を歩いていたので、ライブ後ずっと外は涼しいもんだと思っていたが、帰宅後に着替えたらそういうわけではなかったようだ!

2013年7月6日土曜日

可視化

見えてしまうともうそれは答えになってしまって、想像する思考がそこで停止されてしまう、なんてことがたまにあります。僕はこれに関して勿体ない、と思うことがあります。

例えば「えもいわれぬタコ」という文章表現があったとします。えもいわれぬ、とは言葉に出来ないほどのなにやら趣があるようなときの言葉ですね。そんなタコなのですから、さぞかし立派で堂々として、もしかしたら色つやもすごい綺麗なのかもしれない、と読む人それぞれが脳の中で考えると思います。
ではその「えもいわれぬタコ」がリアルでいたとして、パッと水族館でみたとすると、あんがい割と普通!ということもあり得ます。もしかすると想像していたよりももっと「えもいわれぬ」様相かもしれませんよね。ここで、自分たちの脳内に住んでいたタコと、リアルタコとで答え合わせが行われたわけですね。

想像のものと、可視化されたものが巡り合った時、僕はいったんそこで想像のプロセスが止まると思っていて、旅行等でも、行きたい場所の写真って大抵事前にみたりするじゃないですか。「どんなところだろうワクワク」→「あっ…こういうところなんだ」という風に、想像のプロセスが一度止まりますよね。感覚的に、僕はこういうのはちょっと勿体ないと思うのです。
創作で言うと、漫画や小説などが原作だとしたら「もしかしたらあのシーンはこうなるんじゃないか」と思っていたところが、いざ色がついてキャラクターが喋るともうそれは別のものですから、とたんに「見えてしまった」感が強くなるんですね。であればいっそそれを見ないで、自分の中でずっと想像のプロセスを走らせ続けるというのも一つの選択ではないかな、と思うのです。
そうすると、もしかしたらあなたの頭の中の「えもいわれぬタコ」が「すごいゴージャスなタコ」に変貌しているかもしれませんよ。

2013年7月4日木曜日

練成

湧いて出た作業AとBの対応のため作業Cが中断していましたが作業C再開。作業AとBに伴って練成された作業Dは明日対応で決まり。作業Cは日付が変わるまでに終わらせたい。
…全ては明日の飲みEのためだ!

2013年7月2日火曜日

言語に内包される意識

人によって、ある言葉に対して抱く想いやイメージや意味というのは違う。こう感じる状況と言うのは日常の中でも割と遭遇することだろうと思います。

空 (そら)
この「空」という単語、みなさんならどんなイメージを持っているでしょうか?文字ひとつとっても、人によって全く思い浮かべるモノは違うはずで、真っ青な夏の空を浮かべる人もいるかもしれないし、夜空を浮かべるかもしれない。もしかしたら、空を見上げると悲しさがこみ上げてくる、なんて連想する人もいるかもしれませんよね。

なので、例えばここで私が「今日は綺麗な空でした」という言葉を並べても、これを聞いた人から、どれぐらいのレベルで綺麗だったのか、そもそも、「今日」のどの時間帯の空だったのか、天気は晴れていたのか?どういう気持ちで空を見ていたのか?などのツッコミがくるかもしれません。
前提として、人が思い浮かべるイメージと自分のイメージとは全く別モノである、と意識する。そう考えれば、他人に適切に伝達する必要があることがきっと分かるはずです。伝達する側は、この空のイメージを適切に伝えるために、前後の文章で補足したり、何か別の言葉で言い換えたり、あるいは絵に描いて説明したり…、言葉のイメージのチューニングは日々怠らず、意識する必要があります。