2011年10月2日日曜日

CD

昨日買ったCDをうっかり床に落としてしまい、ふたが破損してしまった。
大抵CDってパカッと開く時の根っこの部分が損壊するような気がする。コスト的に頑丈にはできないのだろうか?

2011年7月18日月曜日

分割解凍圧縮

比率100の描きたいことがあって、70を描き30を思考してもらう。しかしその100がさらに全体の100の中の10に過ぎない。とか。そういった構造は映像にどのように盛り込んだら面白くなるのだろう?

30のものが0.2に圧縮されていたとして。最後まで見たら実はコレは30でしたというカタルシスも面白い。

作品の必要さとして、100をまず描いてしまうのは必要最低条件だ。

2011年7月16日土曜日

道はいつでも目の前に切り開ける

映像クオリティの上げ方はいくらでもありうる。しかしそこに思考が行きつかなければ、レベルはいつまでたっても変わらない。これでいいやと思った段階で、その映像のレベルはそこで止まる。自分から常に湧き出る、面倒くさいなぁという心は厄介で、それを断ち切らずして映像を作ることは不可能だ。

もし面倒くさいという気持ちが支配して筆が止まったら、その活動にはいったん終止符を打ち、別の活動に楽しさを見出した方が有益である。

「きっとまだ出来ることがあるはずだ」 この精神は常に持っておきたい。

2011年7月1日金曜日

引き寄せられる記憶

私が毎日見ているあるブログには、一日2枚ペースで風景写真がUPされている。
ここ最近は夏の田舎の景色が毎日楽しめるのだが、その中でのある一枚で、私は小学校の頃の記憶に接触した。
この時期、自分が児童の頃はどんな心境でどんな毎日を送っていたのかだいぶ忘れていた。放課後、友達と鬼ごっこをやったり、授業中に国語の教科書の片隅でパラパラ漫画を描いたり。クーラーのある職員室に入った時の恐ろしいぐらいの涼しさを感じたり。
今ではスルーしてしまうようなことも、小学生にとっては全てが新鮮だ。特に夏は感覚が極端なものが多い。それを代表するのが「暑さ」だと思うが、今の私が感じる暑さと、小学生の頃の私が感じていた暑さはきっと違う。そのきっと違う暑さを、ブログの写真は思い出させてくれた気がするのだ。

2011年6月3日金曜日

パーソナル思考からパブリック思考への連結

よく「夢」という言葉によって、現在自分が望んでいる欲求、願望などにあてがわれる。
夢にかかる動詞は「見る」とか「叶える」がメジャーか?あとは「追う」「願う」等。未来がこうなってほしい!という気持ちを強くイメージする。それはごく個人的なことかもしれないし、他人へのこと、社会へのことかもしれない。パーソナルな願いと、パブリックな要素を含む願い。この二つはもしかするとオーバーラップしているかもしれない。「シェフになりたい」(パーソナル)と、「自分の作った美味しい料理を多くの人たちに味わってほしい」(パブリック)。
どんな願い事も、大抵は社会への連結に関与するものだ。そりゃそうだ、願いが強く、大きければ、周囲への影響はほぼ確実に発生する。そのレイヤ・スケールは、近所のオバチャンコミュニティだけかもしれないし、自分が住んでいる町全体かもしれない。パーソナルな望みを思う未来の自分と、その周りを客観視してみよう。社会へのプラスになること、そしてそのことに自分はどう関与できるかというイメージに移行すると、先の「夢」という少々ふわふわした単語から、より具体的な思考ルートを形成しようと脳がマジメに働きだす。
「外」へのイメージというのは、実行するための推進力に比例するのかもしれない。

2011年5月28日土曜日

優先する意思によって作られる何か

私たちが目にする出来事や商品や、番組は「誰か」による「何かを優先する意図」で決定づけられ、発生しているようである。それは、結果的に私たちが目にしたときに持つ印象とはあまり関係がないことも有りうる。「サア皆さん電気を消しましょう運動」というのがあったとして、それは本当に我々のためにやっているのかい?とか。こういう誰かの何らかの意図にズルズルと印象を持っていかれる感覚というのは時々感じますが、私たちが思考するという態度を放棄しなければそれはある程度回避することができるかもしれない。
その優先する意図がどんどん表に出てきて露骨になってくるとキモチワルイだけである。
出来ればこの供給する側の意図(inオブラート)と、需給する側の要求、印象等は何もかもが一緒とはいわずとも、オーバーラップする箇所があるのが望ましい…。

2011年5月1日日曜日

流れる世界

生み出された世界や人物は、オチに向かって突き進んでいる。
それは積極的かもしれないし、ただ、タイムコードが進んでいるから結果的に進んでいるだけなのかもしれない。
もしかすると創作者ですら、そのラストは想像できないものなのかもしれないが、創作者の責任は、それを最後まで描いて提示することだ。

2011年4月23日土曜日

想像化

今、自分が作っている作品を文章化している。登場人物の移動が多く、場面転換が頻繁に行われるので、頭ん中もゴッチャになってくる。書いていくうちに、どんどん想像力が広がり、徐々に「その作品のための」文章表現のバリエーションが増えてきた。

■というのも、書き始めから想像力がフルで稼働するわけではなく(ネタ出しをやるなら朝だぞ!)、有る程度の材料としての文章を打ち込んだ段階で、「この表現の方が適切だな」とか「この形容詞はこのキャラにふさわしい」など、より表現を深める方向へと思考はシフトしてゆく。この過程はなかなか面白く、映像のように、視覚化されるまでにある程度時間を要するものとは異なり、文字であればいきなりポンっと面白い表現が出てくることも有りうる。その「いきなり」は閃きのような一瞬の時間で出てくるものではなく、それまでに何十時間と思考しているうちに、ある日突然出てきたように錯覚する。これは思考の連鎖反応のようなものだと思うが、この連鎖がうまくいけば、タイピングの速度も軽やかなものになる。

■絵による説明が無いので、自分の文章表現でのみ、映像を表現する。「主人公は神戸に向かう」というのを文章化するのでも、人によって様々な表現があり、その切り口には個性が出る。その人の経験、体験なども反映される。読み手はその文章を読み、さらに読み手による想像によって世界が作られる。
恐らくは作者の想像のそれとは異なる想像になるだろう。文章による、読み手へのこの想像のバケツリレーが行われているというのは非常に面白い。

2011年3月27日日曜日

その瞬間を感じる

未来の結果を案ずるあまり、あまりにも突飛な夢や目標ポイントを設定する、という経験は多くの人が体験したことがあると思う。しかしその未来の結果は、今の瞬間を積み重ねて初めて到達できる。ある書籍を読んで、これは映像の作り方にも関係することであると感じた。
ほんの一瞬の輝きでもいい、その輝きが連結して、トータルを高めることが出来たら、それはきっと素晴らしい作品となりうる。

2011年3月26日土曜日

レイヤチェンジ

漫画、アニメーションではしばしば転校生が教室で紹介されるシーンが使われる。それは、彼や彼女らにとって、間違いなく転機の瞬間であり、物語を描きやすく、かつ視聴する多くの人が何かしら目にしている光景のため、作品に組み込みやすいというのが大きな理由である。今までのレイヤがチェンジする瞬間である。

日々私たちが視聴したり読んだりする作品の殆どにはこの「変化」が組み込まれている。ごく普通の少女が魔法使いに変身するのも変化であるし、浪費癖のある主人公が何かのきっかけで節約を始めることも変化だ。そして私たちはその変化の描写が優れていればいるほど、心を動かされる。感動する。

レイヤチェンジの瞬間は週刊誌の漫画では読者を飽きさせないためにいろんなきっかけでその変化は描かれる。例えばページをめくる瞬間にもその変化は訪れる。本来このページをめくるという変化は作品そのものの変化とは関係ない。ただ読者の行動である。しかしこの手法はどんな漫画でも大なり小なり使われている。いわば私たちリアル側での「変化」、レイヤチェンジである。

現実レイヤと作品レイヤ、両方に変化を加えたとき、さらに人の心の感動は増幅されるのだろう。

2011年3月25日金曜日

記憶のパノラマ

貴方達は、日々変化をし、その変化は空間に反映される。それは自分たちの住む世界で得た情報や知識経験に基づいて構築される。情報量が多かったり、ちょっと異質な情報が混じったりもするかもしれない。年齢を重ねることによってもその光景は変化する。もちろん、変化をしたのは貴方である。

例えば大人が見える小学校の校舎と、子供からみた小学校の校舎の見え方が違うように。私たちは大人になるにつれ、かつて居た学舎がかくも小さいものだったかと驚く。しかし子供のころはそれにが気付かないのだ。多くの人たちは忘れてしまっただろう、廊下を走って先生に怒られた記憶、学級会の様子。油引きをしたあとの匂い。体育館の冷たい床。校庭の砂利。教室で買っていた熱帯魚(餌当番のために早起きした時の誰もいない教室)。それぞれの記憶の中に、空間はボトルキープされている。
貴方の記憶のパノラマは見えますか?

2011年3月21日月曜日

接続される

大きな空間の中に存在する個人個人の空間。そのパーソナルな存在同士を繋ぎとめるもの。場所、組織、情愛、家族、世界。
どんな映像を描くにしても、キャラは一人ではなく、きっと周りの人との干渉によって生きているはずだ。彼らがその空間でどうやっていきているのか、物語を作り上げているのか。接続される個人空間の組み合わせは限りない。これは考えを広げてみると、面白い。

今考えているのは、普段はありえなさそうな「接続」がきっかけで、バカな展開に発展してゆくような映像だ。